2014年7月20日星期日

「地方民族主義者」が語る中国文化大革命 ― 内モンゴル自治区における回想と研究のヘゲモニー ― 楊 海英

中華人民共和国より二年半も先に1947 年5月に成立した内モンゴル自治区において、文化大革命中に大量虐殺が発生した。ひかえめな政府公式見解によると、およそ346,000 人が逮捕され、そのうちの27,900人が殺害され、120,000 人に身体障害が残ったとされている[郝維民 1991:313-314]。中国政府の数字を信じる者は世のなかにいない。というのも、1981 年当時の内モンゴル自治区の書記で、中国人1の周恵は「隔離され、審査を受けたモンゴル人の数は79 万人」だと話していた[阿木蘭 2010:541]。また、数年後の1989 年に内モンゴル自治区党委員会が公表した被害者数は480,000 人だった[阿拉騰徳力海 1999:85]。独自に調査したアメリカとイギリスの研究者たちはおよそ500,000 人のモンゴル人が逮捕され、殺害されたモンゴル人の数は100,000人に達すると見積もっている[Jankowiak 1988:276;Sneath 1994:422]。最近では、内モンゴル自治区のあるジャーナリストが、直接殺害された者と自宅に戻ってから亡くなった者、いわゆる「遅れた死」を含めて、モンゴル人犠牲者の総数は300,000 人に達すると報告している2[Sirabjamsu 2006:44]。このように、中国にいるモンゴル族全体が受難していた現代の凄惨な歴史を当事者たちは中国共産党政府と中国人民が一体となってすすめたジェノサイドだと理解している[楊2008:419 - 453;2009a:;2009b;2009c;2010a]。

では、これほど深刻なジェノサイドについて、その発生した現場たる内モンゴル自治区において、モンゴル人たちと中国人(漢族)はどのように理解しているのだろうか。過去の大量虐殺をいかなるかたちで回顧し、研究しているのだろうか。いまの中国では、文化大革命について正面から正々堂々ととりあげることはほぼ不可能である。それでも、許容範囲内でさまざまな文化大革命論が展開されている。内モンゴル自治区の場合だと、問題は誰が、どんな立場から大量虐殺のどの側面について、どのような視点から回想し、研究しているのかが重要である。私は、内モンゴル自治区における中国文化大革命研究には一種のヘゲモニーが存在していると理解している。この目に見えるヘゲモニックな政治的な現象こそ、大量虐殺の真相を歴史の闇に葬りつつあるし、場合によっては、再度のジェノサイド発動にも口実を与えかねない、危険な思想であると危惧しているのである。

一 曙は東から
上で示した大規模な、徹底したジェノサイドが内モンゴル自治区の津々浦々にまで展開され、「大勝利」を収めたあとに、陰惨な雰囲気がずっとモンゴル人の故郷に充満していた3。1978 年から華国鋒主席の下で限定的な「名誉回復(平反)」がおこなわれても、外来の中国人が先住民のモンゴル人をその故郷で抑圧する政治体制になんら変化は生じなかった。中国政府はあいかわらず移民を増やし、草原を開墾しては、権力を掌握していった。

1981 年に自治区各地で「移民反対」と「文化大革命の徹底的な否定」を求めた学生運動が勃発したが、容赦なく弾圧された[Jankowiak 1988: 269-288;啓之 2010:533-569]。モンゴル人から見れば、中国政府は口先では文化大革命を否定しながらも、少数民族を抑圧する政治的な手法はまったく変わっていなかったのである[楊 2009c:232-235]。そうしたなかで、民族問題の本質は究極的には共産党が作った現代史観そのものにある、と論破した著作があらわれたのである。1995 年に出版されたトゥメン将軍の『康生と内モンゴル人民革命党冤罪事件』である。

書名から分かるように、トゥメン将軍はでっちあげられた「内モンゴル人民革命党粛清事件(挖内人党)」の首謀者を中国共産党の情報機関のトップ、康生に特定する方法をとっている。康生には1942 年からスタートした延安整風運動を主導して、「牛の毛のごときうじゃうじゃする国民党のスパイどもを一掃した功績」がある。その康生は中華人民共和国の建国後、過去に民族自決運動をすすめていた内モンゴル人民革命党の歴史を問題視し、モンゴル人の大量虐殺を主導した、とトゥメン将軍は書いている[図們 祝東力 1995]。

トゥメン将軍はモンゴル人ジェノサイドの発動を中国共産党の歴史と結びつけて描くことで、共産党という災禍の存在を巧みに構造化した。中国内で、過去に同国から分離独立をすすめてきたモンゴル民族の歴史と、政党自身の歴史を建国の歴史と重ねる共産党との間には、相容れられない対峙の構図が最初から存在していた輪郭をトゥメン将軍は分析している。具体的にいうと、モンゴル人の指導者のウラーンフーが共産党中央の政策に抵抗したがゆえに失脚に追いこまれたところから始まり、独自のモンゴル人騎兵師団の粛清と解散、そして、一般のモンゴル人にまで及んだ殺戮を多数の事例で以て詳述している。とくに、モンゴル民族の自治のシンボルであった騎兵部隊は、1939 年の日本対ソ連・モンゴル人民共和国の「ノモンハン戦争」時の興安軍に淵源している。そのモンゴル軍は日本の敗退後には同胞のモンゴル人民共和国との統一合併を目指し、旧満洲国領内のモンゴル人地域と国民党が支配していた綏遠省を併合して、「統一された内モンゴル自治区」の出現を創造した武装勢力である[図們 祝東力1995:112-131]。南モンゴルのモンゴル人たちにとって、同胞のモンゴル人民共和国との統一こそ、大国同士で勝手に結んでいた「ヤルタ協定」によって阻止されたものの、自治区を中華人民共和国よりも先に建立できた事績は、限られた「自決」の成功を意味していたのである。ソ連領内のブリヤート共和国とカルムイク共和国、そしてモンゴル人民共和国と並んで、モンゴル人には社会主義流民族自決をすすめる確固たる力がある、とトゥメンは主張している。この「民族自決を推進する民族主義兼共産主義の存在」が、中華人民共和国から問題視されたのである。

民族主義の波は、南モンゴルの東部から湧き上ったものである。民族自決の担い手たちは、清末期から日本型近代化をいち早く導入していた東部地域に育った者である4。言い換えれば、南モンゴルの東部こそ、もっとも早く近代に覚醒し、民族自決に自発的に取り組んだ地域である。南モンゴル東部出身者らの足跡は決して南モンゴルだけに限られずに、モンゴル高原にまで及んでいた。1911 年におけるモンゴル高原の清朝からの独立を背後から促していたのも、ほかでもない南モンゴル東部出身者だった[田中 1971]。1925 年に内モンゴル人民革命党がコミンテルンと新生のモンゴル人民共和国の援助の下で産声をあげたときにも、同党の有力な指導者となった者の多くも南モンゴル東部出身者だった[ボルジギン 2011:36-40]。日本が満洲国や蒙疆政権等を創って、南モンゴルを自己の利益のためにコントロールしていた際も、同党の党員たちは日本の力を能動的に活用して、将来に中国から独立する運動をひそかに準備していたのである「Sechin Jagchid 1987:140-172」。

のちに中国共産党は南モンゴル東部出身者を「日本刀をぶら下げ、日の丸を担いだ奴ら(挎洋刀、扛膏药旗的)」や「蒙奸」だと批判して粛清した5。トゥメン将軍の著書も、南モンゴルの全モンゴル人が受難した背景には、「東部出身者主導の民族自決史」が中国共産党から危険視されていた、との観点で書かれている。

トゥメン将軍の著書は史実を忠実に再現した著作である、とたいていのモンゴル人や研究者たちはそう評価している。しかし、トゥメン将軍の名著を中国共産党は喜ばなかった。中国共産党はすぐさま南モンゴル西部出身の共産党幹部たちを動員して、モンゴル人初の文化大革命研究の著作を批判する策略を密室で練りあげた。トゥメン将軍が南モンゴル東部のハラチン地域の出身だったということよりも、その歴史著述の方法が論争の的となったのである。

二 「犬同士の喧嘩」を演じた裁判劇
モンゴル人ジェノサイドをすすめる際に、中国共産党は「先に内モンゴル西部出身者を粛清し、返る刀で東部出身者を一掃する方策」をとったのは周知の事実である。具体的には1966 年5 月に北京市内の前門飯店で開かれた「華北局工作会議」の席上で、南モンゴル東部出身者を唆してウラーンフー批判の政治闘争を引き起こした。ウラーンフーは西部のトゥメト出身で、彼とその側近たちは一時、「革命根拠地の延安」の民族学院に滞在していた経歴から、「根本から赤い(根紅苗正的)延安派」と呼ばれてきた。中国共産党は東部出身者にウラーンフーの「西部出身者を重視した狭隘な民族主義」を批判させて、失脚に追いこんだ。まもなく、東部出身者にも「日本刀をぶら下げ、日の丸を担いでいた過去がある」
として大量虐殺の対象とした[ 趙金宝2006:214; 楊 2009b,c]。実際に内モンゴル自治区でモンゴル人ジェノサイドを指揮していた人物で、毛澤東の勅命を帯びた安徽省出身の滕海清将軍もまた意図的に「モンゴル人は東西に分かれて対立している構造」を扇動して、大量虐殺をおこなっていたのである[楊2009a:162]。中国政府と中国人は故意にモンゴル人がモンゴル人を密告し、モンゴ人同士で暴力を振るうよう仕向けて、「犬同士の喧嘩」を演じさせては漁夫の利を得てきたのは周知の事実である6。

私の手元に一通の手紙の複写がある。「内モンゴル延安大学こと元延安民族学院の一部の古参同志たち」から内モンゴル自治区党委員会宛に書いたものである。手紙の書き手はチョルモン(潮洛蒙、元内モンゴル自治区人民代表大会副主任)を筆頭に、雲照光(元内モンゴル自治区文化芸術聯合会主席)、劉璧(元内モンゴル自治区公安庁庁長、中国人)ら7 人である。南モンゴル西部トゥメト出身のモンゴル人高官が4 人で、ほかの3 人は中国人である。

手紙は題して「『康生と内モンゴル人民革命党冤罪事件』との著書内の重大な間違いといくつかの提案」(対《康生与内人党冤案》一書的幾個厳重錯誤的意見和建議)とある。まず、トゥメン将軍の著書内の「重大な間違い」を指摘して、「ただちに同書の販売と再版を停止し、モンゴル語への翻訳もストップすべきだ」と提案している。また、「侮辱された同志たちに対して謝罪するよう」求めている。8頁にわたる長文の手紙の内容を以下のように要約できよう。

一、同書は歴史を歪曲し、「日本と偽満洲国時代の軍官と官吏」を「抗日人士」に仕立てて、専ら彼らが文化大革命中に受けた被害をことさらに強調している。「日本と偽満洲国時代の軍官と官吏」は悪人である。
二、「革命の聖地延安」を悪意で以て攻撃した。康生の指導下にあった共産党の情報機関を描くことで、「革命の聖地延安」はまるで「地獄」だったかのような「まちがった印象」を読者に与えてしまった。
三、1936 年にはコミンテルンに、1946 年には「わが共産党」によって、それぞれ二度にわたって解散を命じられた内モンゴル人民革命党の「民族分裂の歴史」を強調した。民族分裂主義者や蒙奸らを革命家のように美化している。
四、内モンゴル自治区で迫害された「漢族同志を軽く扱っている」。
五、前門飯店華北局工作会議でモンゴル人指導者を批判した「漢族同志たち」の存在と役割を誇大化している。
六、「滕海清同志を含め、多くの漢族とモンゴル族同志の実名を出した」ことで、名誉が毀損された。
結末を先に示しておくが、この手紙はおよそすべてのモンゴル人に酷評されたが、大きな政治的な影響をもたらしただけでなく、ふたたび南モンゴル人社会に深刻な亀裂を生じさせたのである。ジェノサイドを現場で指揮していた中国人の滕海清を無節操に「同志」と美称して媚びていた態度が全モンゴル人の憤怒をかったことは、むしろ小さな問題である7。モンゴル人社会を再度、東西に分断させる政治的な威力を発揮した点が重い。それは、南モンゴルの近現代史をどのように認識するか、という歴史観が背後にあったからである。

一言でいって、南モンゴルの近現代の歴史は、中国人がモンゴル人の故郷に侵略し、草原を開墾したのに対し、モンゴル人は抵抗し、民族自決を実現させようとした過程である。
アメリカの「歩く歴史家」オーウェン・ラティモアの指摘通り、「19 世紀末から始まった中国人の殖民は、モンゴル人の全滅を目的とする行為」であった[Lattiomr 1969:114]。「モンゴル人なき南モンゴル」を実現させようとする中国人とそれに抵抗したモンゴル人の自決史である。この歴史の性質については、東西のモンゴル人の見解も例外なく一致している。問題は誰が民族自決の革命をどのようにリードしたかで、深い溝が両者のあいだに横たわっているのである。史実は既に上でも触れたように、日本型近代化の導入でいち早く覚醒した東部出身者が中心となって民族主義兼共産主義的な政党、内モンゴル人民革命党を立ちあげて奮闘したことである。それは、単に論壇において中国からの自立を空虚に叫
んでいたのではなく、日本統治時代を経て、東部の若きモンゴル人たちは五個もの近代的な騎兵師団を擁して、東モンゴル人民自治政府や内モンゴル人民共和国臨時政府のように準国家体制を整えて、民族自決を着実に推進していたのである。

史実はどうであれ、世のなかは「勝てば官軍」の論理が正統化される。延安に休閑していた西部トゥメト出身者たちは八路軍に追随して綏遠省やチャハル省など南モンゴル西部を「失地回復(光復)」しても、中国人から信用されていなかった彼らには一兵一卒もなかった。リーダーのウラーンフーは自身が共産主義の大本営モスクワに留学していたという国際共産主義の威光を発揮して、みごとに東部出身者たちを親衛隊に改編できたのである。ソ連型の民族自治共和国の建立を夢見ていたウラーンフーは東部出身の知的なエリートたちを温存し、限られた文化的な自治に役立てていたのである[楊 2011b]。東部出身者をそれなりに重用していても、革命史観はあくまでも西部中心でなければならなかった。

「革命の聖地延安で育った西部出身者が中心となって、日本と偽満洲国の旧知識人や偽軍官を改造して、国民党の大漢族主義的支配から全内モンゴルを解放して自治区を創った」、という歴史観が唯一の正統史観でなければならなかった。モンゴル人の民族自決の歴史も完全に「中国革命の一部分」[郝維民 1997]として矮小化され、解釈しなければならなかったのである。こうして中国政府のお墨付けを得た西部中心史観は、モンゴル人の民族自決の歴史を歪曲し、否定するものに変質したのである。

文化大革命中には、西部と東部を問わずにモンゴル人全員が大量虐殺された[楊 2013]。

トゥメン将軍も西部モンゴル人の被害を書かなかったから批判されたのではない。中国共産党から問題視された歴史を忠実に再現したから、西部出身者と中国人から猛烈に攻撃されたのである。要するに、近現代におけるモンゴル人の民族自決の歴史そのものが、ジェノサイド発動の原因だった、とトゥメン将軍は上手に論じたからである。

「南モンゴルのモンゴル人は中国人の入植と草原開墾に抵抗しなかった」とか、「西部出身の延安派が南モンゴル全体を解放した」、という官制の歴史観は中国共産党の統治が続く限りにおいてはまだ跋扈するだろうが、歴史修正主義はもはや許されない。この自明の歴史をめぐる論争はイデオロギー面での「犬同士の喧嘩」として演じられ、中国政府と中国人は相変わらず大人たいじんとして振る舞った。「あなたたち西部出身のモンゴル人こそ、革命の聖地で育った、真の革命家だ」、と「純朴な犬」同士に中国人たちは「公平な仲裁」を下した。かくして、トゥメン将軍の著書も禁書のリストに加えられたのである8。

三 西部出身者らの回想録群
では、南モンゴル東部出身者と同様に例外なく虐殺されていた西部トゥメトのモンゴル人たちはどのように文化大革命を振り返っているのだろうか。ここで、代表的な作品を三つ紹介しておこう。

先陣を切ったのは内モンゴル軍区副参謀長のタラ(1920-)の『平凡な人生―タラの革命回想録』である[塔拉 2001]。タラはウラーンフーと同じトゥメト旗出身で、ともに雲という姓9を名乗り、かつ延安民族学院を出ているので、典型的な「延安派」とされていた一人である。彼が記す「平凡な人生経歴」は、ウラーンフーの一派が延安から出てきて、いかに内モンゴル人民革命党の東モンゴル人民自治政府と内モンゴル人民共和国臨時政府を解体していったかのプロセスでもある。共産党の八路軍と新四軍を後ろ盾に、共産主義思想を振りかざして、対中国強硬派たちに「対日協力者」のレッテルを張っては粛清していった歴史が活写されている。東モンゴル人民自治政府のエリートたちを押さえて軍権を掌中にした延安のタラたちであるが、その彼らも文化大革命中は一人残らず打倒された。東西を問わずに、内モンゴル軍区内のモンゴル人将校たちが惨殺された事例をタラは数多く挙げている。文化大革命が収束したあと、タラ副参謀長自身を含め、モンゴル人将校たちは軒並み軍から排除され、モンゴル人部隊が全滅していった内幕も暴露されている[塔拉2001:363-496]。内モンゴル軍区は元々、中国の「一三大軍区の一つ」で、モンゴル人のウラーンフーが最高司令官兼政治委員をつと
めていた。モンゴル人大量虐殺も集寧市に駐屯していたモンゴル人騎兵師団の武装解除から始まったものである。モンゴル軍の全滅後に、内モンゴル軍区は大軍区から格下げされて、北京軍区の管理下に置かれるようになって、今日に至る10。

上で示したように、タラの著書はあまりにも鮮烈に中国共産党によるモンゴル軍の解体過程が詳述されているので、出版後まもなく、禁書のジャンルにカウントされたのである。延安派の底力は大きい。自治区の高官層を形成していた延安民族学院の同窓生たちは2005 年に『清涼鐘声』という回想録を公刊した。これは、「聖地延安の魂」というシリーズ本の一冊である。上で取りあげた、トゥメン将軍の著作を批判したチョルモンと雲照光をはじめ、タラ元副参謀長など、西部トゥメト出身の元高官たちがほぼ全員、文化大革命中に受けた被害を回顧している。筆舌に尽くせない暴虐を経験させられたが、彼らに冠された罪も東部出身と同じ、「民族分裂主義者集団の内モンゴル人民革命党員」だったのである[雲照光 2005]。

客観的に見ると、西部出身者らのなかで、その最高指導者のウラーンフーら数人だけは1925 年10 月に結成された内モンゴル人民革命党に参加していた。大半の西部トゥメト出身者は「民族分裂主義者集団」と無関係なだけでなく、上のタラ副参謀長のように、むしろモンゴル人民共和国との統一を目指す東部出身者から権力を奪った人たちである。いわば、中国政府と中国人たちにとっては、犬馬の労を尽くした「功臣」のはずである。それでも、西部出身者たちにも東部出身者同様の「民族分裂主義者」の罪が突き付けられていた性質から、内モンゴル自治区における文化大革命は「中国人対モンゴル人」という民族間の対立軸で展開されていた事実が証明できたのである。西部トゥメト出身者にとつては、可哀そうであろうが、モンゴル民族の宿命である。

西部出身者らは「民族分裂的な活動」をした過去がほとんどないので、当然、彼らも文化大革命が発動された歴史的淵源を追求しようとはしない。東部出身のトゥメン将軍のように、まず過去の民族自決の歴史を詳述してから、この民族自決史こそが大量虐殺を招いた唯一の原因である、という適確な論破は『清涼鐘声』からは聞こえてこないのである。ここに、西部出身者と東部出身者の、それぞれ異なる文化大革命史観がみごとに顕出しているのである。文化大革命前の内モンゴル自治区は毛澤東が強調する階級闘争に不熱心だった。「階級闘争の不熱心」が最大の原因となって、首都北京からの政治の嵐が辺境の内モンゴル自治区を襲い、訳もわからないうちに大量虐殺の波に呑みこまれていった[雲照光2005]、というシンプルな記述方法である。

西部出身の元高官たちは、「文化大革命の惨劇から教訓を汲みとることによって、二度とこのような惨劇を繰り返さずに、社会主義政権の長期的な安定のために寄与するために」、回顧録を出した、としている[雲照光2005:371]。いうまでもなく、これは西部出身の元高官たちの保身的なポーズである。西部トゥメトのごく普通のモンゴル人農民でも、内モンゴル自治区の文化大革命における民族間紛争の性質について深く理解していたことは、私が編集して公開した被害者報告書に共通して現れている[楊 2013]。西部出身の元高官たちもモンゴル人農民と同じように理論的には理解できたとしても、決してそれを口にしようとはしなかった。彼らは、民族間紛争について指摘しない「賢明」な姿勢をとることで、東部出身者との差異を中国政府に明示したかったのである。賢い中国人ももちろんモンゴル人の異なる政治姿勢に気づき、喜んで「犬同士の喧嘩」を観戦していたのである。

2010 年5 月28 日、内モンゴル自治区政府は「2010・66 号会議通知」を配布した。きたる2010 年6 月2 日に市内の新城賓館という政府直営の高級ホテルで『孔飛伝』(孔飛―風雨坎坷六十年)の発行式がおこなわれるとの内容だった。発行式には自治区政府主席兼党委員会副書記のバータルをはじめ、現役と第一線から退いた錚々たる高官たちが出席した。

これだけ政府主導で宣伝された著作であるが、意外にも文化大革命の真相を当事者の視点で厳しく追及した内容からなっている。著者は内モンゴル自治区軍区副司令官だった孔飛少将の娘、アームラン(阿木蘭)である。彼女は現在河北師範大学の教授で、自らの経験と孔飛将軍が残した日記と政府公文書、それに孔飛と親交のあった元政府高官らの証言に基づいて書いている。

孔飛は南モンゴル東部ホルチン左翼中旗の出身だが、日中戦争中に共産党に入り、延安での生活が長い。モンゴル人の民族自決運動の指導者ウラーンフーの妹、雲清を夫人に迎えている。一般的に南モンゴル東部出身者たちは満洲国時代に日本型の近代教育を受けた過去から、「日本刀を吊るし、日の丸を担いでいた奴ら」と中国人に蔑称されるのに対し、延安派は主としてウラーンフーと同じく西部トゥメト生まれのモンゴル人が多い。孔飛は珍しく、東部出身の延安派になる。
アームランはその父親で、内モンゴル軍区副司令官だった孔飛と他のモンゴル人将校たちがどのように粛清されたかを詳述しているだけでなく、軍区の元高官たちから重要な証言を集めている。例えば、毛澤東は早くも1964 年に人民解放軍の総参謀長の羅瑞卿を内モンゴル軍区に派遣して中国人の紅軍出身者らにモンゴル人将校の粛清準備を指示していたという[阿木蘭 2010:52-353]。この証言は、中国共産党華北局も1964 年からウラーンフーらモンゴル人高官に関する情報を極秘に収集していた事実[楊 2011,2012]と完全に一致しているので、非常に重要である。
孔飛副司令官は、「民族分裂主義者集団の

内モンゴル人民革命党のボス兼ウラーンフー反党叛国集団の最高のボスであるウラーンフーの妹の夫」という身分から、「モンゴル人の重犯」と認定された[ 阿木蘭2010:384,389]。孔飛少将は文化大革命終了後に軍への復帰を強く希望したものの、それも劉華香や肖応棠など、権力を奪った中国人将校たちに阻止された。中国人たちには「内モンゴル軍区の連中はみな日の丸を担いでいた奴らか日本刀を吊るしていた者だ」という不信感と差別観念が根底にあった、と著者は鋭く分析している[阿木蘭 2010:372,423]。

孔飛副司令官も実際は過去に「日本刀を吊るした」ことはない。しかし、彼は東部のモンゴル人である。娘のアームランも東西の溝を飛び越えて、「東部出身の延安派の孔飛」を全自治区の革命史のなかで位置づけることができたのである。ここに、彼女の著作の意義が認められよう。

四 「所詮は地方民族主義者にすぎぬ」西部出身者の特権1981 年に内モンゴル自治区で大規模なモンゴル人学生運動が勃発した。チベット人とウイグル人はまだ覚醒していないのだ、と高校生だった私は当時、そう思っていたもので
ある。先輩たちが中国人農民の入植を阻止し、文化大革命の遺留問題を速やかに是正するようストライキをおこなっていた頃、私たち高校生は校舎内に閉じこめられて、歯がゆい思いをする毎日だった。

モンゴル人学生運動を中国政府と中国人の幹部たちは文化大革命時とまったく同じ手法で処理した。モンゴル人学生たちの背後には「大規模な民族分裂主義者集団」があると判断し、「真の危険は東部にあり」、と当時の自治区書記で、中国人の周慧は公言していた。「西部トゥメトのモンゴル人たちが騒いだって、所詮は地方民族主義者にすぎない。民族分裂主義の危険は東部にある」、と中国人の王鐸書記も指摘していたのである。かくして、中国政府と中国人たちはまたもやモンゴル人を東西に分裂させて、東部出身の幹部たちをほぼ全員粛清したのである。文化大革命後に「名誉回復」されて復帰したばかりのジェノサイドの生存者たちは、二度と「自治の権利」を獲得することもなく、永遠に追放されたのである。代わりに自治区の「民族幹部」に任命されたのは、ごく少数の西部出身者と外来の中国人たちである[ 阿拉腾德力海1999:350-393]。

今日、内モンゴル自治区に公的に出版された文化大革命に関する限られた著作は、ほとんどが西部出身者の手によるものである。東部出身者の著作はトゥメン将軍のもの以外にない。アルタンデレヘイも『内モンゴルにおける内モンゴル人民革命党員を抉り出して粛清する災難実録』を書きあげたが、地下出版以外に方法はない。多少「騒いでも」、「地方民族主義者」たちは「社会主義の長期安定のため」に文化大革命の「教訓を汲みとる」ことは許されている11。しかし、民族自決の歴史を近代化の脈絡のなかで著述し、それが原因で中国政府と中国人たちから「歴史を清算する」形式でジェノサイドが発動された事実は書けないのである。ここに、文化大革命を回顧し、研究する時のヘゲモニーがモンゴル人の故郷に存在しているのである。

参考文献
中国語文献
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ボルジギン・フスレ2011 『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策』東京:風響社。楊海英

2008 「ジェノサイドへの序曲―内モンゴルと中国文化大革命」『文化人類学研究』73 巻3号、419-453。2009a 『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(1)-滕海清将軍の講話を中心に』(内モンゴル自治区の文化大革命1)東京:風響社。
2009b 『墓標なき草原(上)』東京:岩波書店。2009c 『墓標なき草原(下)』東京:岩波書店。2010 『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(2)―内モンゴル人民革命党粛清事件』(内モンゴル自治区の文化大革命2)東京:風響社。2011a 『続 墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』東京:岩波書店。2011b 『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(3)―打倒ウラーンフー(烏蘭夫)』東京:風響社。2013 『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(5)―被害者報告書(1)』東京:風響社。

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Tümen and Ju Düng Li1996a Kang Šeng kiged“Öbür Arad-un Nam”-un kilis kereg. Öbür Mongγol-un arad-un keblel-ün qoriy-a. 1996b Kang Šeng kiged Öbür Mongγol-un Arad-un Qubisqaltu Nam-un kilis kereg. Ündüsüten-ü keblel-ün qoriy-a. 1 本論文では「中国人(Chinese)すなわち漢族」との立場をとる。モンゴル人やチベット人、それにウイグル人などは単に国籍上、中華人民共和国の国民となっただけで、いわば「中国籍モンゴル人、中国籍チベット人とウイグル人」で、決して中国人ではない。

2 私はいままでにモンゴル人ジェノサイドに関する政府公文書を中心に5 冊の基礎資料を公開した。目下、二冊目の被害者報告書を編纂中で、2013 年春に公開予定である。私が被害者報告書類に基づいておこなった実証研究では、「遅れ
た死」も含めると、Shirabjamsu が主張する「犠牲者数30 万人」は妥当な計算だと指摘できよう。

3 南モンゴルのモンゴル人たちが中国政府と中国人に虐殺された事実について、モンゴル人民共和国はうすうす気づいていた。1970 年代末期に内モンゴル自治区を通過したモンゴル人民共和国の外交官は、「血の匂いがした」、と私に
語ったことがある。モンゴル人の表情がみな暗く、抑圧されていた事実はすぐに分かったという。

4 南モンゴルの東部地域を日本などでは「東部内蒙古」や「満蒙」などと表現するが、いずれも政治性の強い呼称である。こうした政治性の強い地名の創出には日本の大陸進出が背後にあったのである。この点について、中見立夫[2013]
による論考がある。

5 モンゴル人たちを単に「日本の蒙奸」や「対日協力者」だと批判することは、一見すると巨悪は日本で、モンゴル人は「軽犯罪」のような印象を受けるが、実はそうしたやり方はモンゴル人の民族自決運動を矮小化するためである。モンゴル人は受け身的に日本に追随したのではなく、あくまでも日本の力を利用して、中国からの独立と自治を成功させたいとしていたのである。こうした歴史は『徳王自伝』(1994)などにも反映されている。また、最近では、リ・ナランゴアによる「モンゴル人の民族自決運動とアジア主義との関連」についての新しい考察がある。それによると、日本のアジア主義に共鳴したアジアの多くの民族と異なって、モンゴル人はあくまでも中国からの独立に熱心で、アジア主義が唱える「西欧列強」よりも、中国を脅威と見なしていたのである[リ 2013:146-163]。

6 中国は明朝期から中華民国に至るまで、ずっとモンゴルの部族間の紛争を煽って、自らに有利になるよう漁夫の利を得ていた。1911 年にモンゴル高原が独立し、南モンゴルも同調したが、中華民国の中国人はすぐさまモンゴル人の「地
域間の対立」を悪用して、独立運動を失敗に追いこんだ[Lattimore 1969:47-49]。意図的にいわゆる「地域間の対立」を強調してモンゴル人同士を対立させる陰険な手法は今もつづいている。たとえば、自治区政府の主席を任命するさ
いも、「東西のバランスを考える」として、順番で選ぶようにして、モンゴル人同士に争わせて、「調停する善人」の役を演じている。

7 中国人の滕海清は何万人ものモンゴル人を虐殺したにもかかわらず、何ら責任を取らずに山東省の済南軍区司令官に栄転していった。のちに彼は暗殺を恐れて南国の広州軍区の保養地に厳重に警備されて生きていたと伝えられている。

8 トゥメン将軍の本は禁書にされても、二種類のモンゴル語版がある[Tümen and Ju Düng Li 1996a,b]。また、何種類かの海賊版も出回っている。

9 トゥメトのモンゴル人の多くが雲という姓を名乗るが、これは歴史上の部族(万戸)名、ユンシェープの頭文字ユンに当てた漢字である。

10 モンゴル人の騎兵部隊が全滅に追いこまれてから、中国政府はもっと大胆に内モンゴル自治区へ中国人の移民を進めるようになった、と識者は指摘している[阿拉腾德力海 1999:359]。

11 アームランによると、父親の孔飛は「地方民族主義者」としても断罪されていたという[阿木蘭 2010:346-347]。たしかに、ウラーンフーらのモンゴル人指導者を「地方民族主義者」だと中国政府は一時批判していた。この点につ
いては過去に研究者も注目した[Heaton 1971:2-34]。ただ、実際は文中大革命の進展につれて、地方民族主義云々とほとんどいわなくなり、代わりに境地用されたのは「反党叛国」と「民族分裂主義」である[楊 2010]。「反党叛国」と「民族分裂主義」の「罪」ははるかに「地方民族主義」より重い。今後、研究者たちはこの点に注意しなければならない。

ICCS Journal of Modern Chinese Studies Vol.7 (2) 2014

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