2015年5月24日星期日

書籍「内モンゴルから見た中国現代史」紹介

南モンゴルの歴史を実証的に研究されているボヤント氏の処女作、「内モンゴルから見た中国現代史」が出版されました。静岡大学教授、楊海英先生も推薦されております。
三浦小太郎先生の書評について掲載許可を頂きましたので、紹介させて頂きます。

書評「内モンゴルから見た中国現代史」ボヤント著 集広舎 
三浦小太郎(評論家)
 本書は、中国共産党政府による内モンゴル(本書ではこの記述で統一されているので、筆者もそれに倣う)弾圧支配についての、中国側資料に基づく告 発の書だ。そして本書の特徴は、何よりも、中国側の内部文書を大量に引用紹介し、彼らの資料から弾圧の方針や実態を引き出したこと、また、共産党が政権を 奪取する直前から文化大革命にいたるまで、系列を追って弾圧政策の進行を論じている点である。このような論考を中国国内で出版できる可能性は殆どなく、そ の意味でも貴重な一冊となった。
 しかし、同時に本書にも欠点は無しとしない。本書は論文としての緻密さを求めるあまり、資料の引用、説明の繰り返しが多く、文章もやや読みにくいものとなっている。本稿ではこの貴重な書物のごく一部を紹介させていただきたい。

中国の「地方民族主義」弾圧の論理
 本書240頁に掲載された「アイマック(内モンゴルにおける行政区域:三浦注)の直属機関に地方民族主義を普遍的に批判する運動を展開する指示」 (1958年12月、中国共産党ジリム・アイマック委員会)ほど、中国政府の内モンゴルにおける民族政策を完全に表現したものはない。この文書では「地方 民族主義」とは①共産党が少数民族を指示していくことを疑問視し、共産党の政策の「個別な弱点を捉えて」党の指導を侮辱、攻撃すること②共産党の民族政策 を「同化」政策と疑問視し、党が民族固有の伝統や習慣を軽視すること、③漢語とモンゴル語を混合する「混合語」の使用を拒否するモンゴル人の姿勢、この三 点が批判されているのだが、これこそまさに中国共産党が、政権奪取以来、現在に至るまで継続して行っている民族弾圧政策を逆に照射するものだ。

そして、内モンゴルにおける弾圧の原因の一つには中ソ対立があった。この点を、著者のボヤント氏は次のように指摘している。「1959年から、中ソ 関係は完全に破局することになり、1960年代にはイデオロギーの論争から敵対国へと変化」し、モンゴル人民共和国も中国にとってはソ連の衛星国として仮 想敵国となった。しかし、中国政府が如何に内モンゴルの政策が成功していると主張しても、現実に内モンゴル自治区のモンゴル人がモンゴル人民共和国に「逃 亡」する「事件」が絶えず起き、中国政府は内モンゴル自治区のモンゴル人共産党指導者たちを全く信用していなかった。「中国の立場から見れば、内モンゴル 地域は、『祖国』の辺境で、ソ連に対する反修正主義の前線であり、戦略的要地」(280頁)となり、だからこそ、この地のモンゴル人のうち「民族主義者」 とみなされたもの、中国政府に反感を持つものは、来るべき中ソ戦争(実際、1969年には中ソ両国は戦争勃発の一歩手前まで行った)の際に敵側に回りかね ない存在として抹殺すべき対象とみなされたのだった。

宗教弾圧と大躍進
もう一つ、内モンゴルにおいて中国政府が危険視したのは、モンゴル人のほとんどが敬虔な仏教徒、しかもチベット仏教を信仰していたことだった。内モ ンゴルにおいて特徴的だったのは、元々内モンゴル・外モンゴルの統一を唱えたのは、1911年の清国崩壊時、ジェプツン・ダムバー活仏(ボクト・ハーン) であり、独立の宗旨書を発行している。活仏自身は中華民国の軍に一時は軟禁されるが、後にロシア革命後の内戦の最中自由の身となり、1924年に世を去る まで形式的とはいえ帝位に在り、モンゴル人の独立の象徴的存在であり、この宗旨書はある種の独立への信仰の書として、ラマや庶民を通じて引き継がれていっ た。このような信仰のシンボルとして活仏信仰が続くことを、中国政府は当初から怖れていた(148頁)

中国政府の宗教弾圧は、建国直後の1950年代からはじまる。そのきっかけはまず朝鮮戦争だった。アメリカを敵とし北朝鮮を支援する「抗美援朝運 動」が全土で展開され、内モンゴルでも、本来信仰とは関係ないはずのこの運動が、51年に開催された「第一期ラマ会議」こと、有力なチベット僧(ラマ僧) を集めた宗教会議で提起され、僧侶の義務として「毛主席を擁護し、中国共産党を擁護し(中略)アメリカ大国主義が朝鮮と台湾に侵略することに反対し、アメ リカ帝国主義による日本の再武装に反対する」(161頁)ことが要求された。この宗教会議はその後も近年まで何度も開催されているが、全て、宗教問題では なく、その時点における政治問題への僧侶の姿勢が問われるものであり、何と現在、人権と民族自決を訴え続けているハダ氏の南モンゴル民主運動事件に対して も開催されている。宗教を完全に国家の統制下に置く姿勢は、逆に信仰の力を如何に中国政府が怖れているかの逆証明でもあり、同時に伝統信仰の抹殺を意味す るものでもあった。

中国政府の公文書「中共ジリム・アイマックにおける迷信活動状況に関する報告書」(1957年8月)によれば、ラマ僧が患者を治療する(伝統的なチ ベット医学を含む)、民衆がお寺に行ってお祈りをすることを含め従来の信仰を「迷信活動」と決めつけ「人民・民衆の生命と財産に、厳重な損失をもたらして いる」「絶対に勝手に見逃してはいけない」ものとしている。僧侶は「真剣に仕事をしていない社会のごろつき分子」であり「流言飛語で民衆を惑わし」ている 存在であり、だからこそ、チベットでも内モンゴルでも、徹底的に仏教寺院も僧侶も尼僧も弾圧、虐殺の対象となった。

僧侶への弾圧の実態についてはここでは触れない。ただ、ラマたちの犯罪とみなされたものは、公文書ではほとんど「診療行為」であり、弾圧され迷信と みなされていく信仰への復興、それも「人々が、ただ仏教を信じる心さえあれば、復興する」と言った、祈りの姿勢だったことは、私達の胸を打つ。中国社会を 崩壊させ、大量の餓死者を出したのは、本書でも厳しく指摘される「大躍進運動」であり、それは毛沢東のそれこそ「迷信」としか思えない経済政策と人民公社 だったことを思う時、僧侶と共産党指導部のいずれが人民にとって敵だったかは言うまでもないだろう。

その大躍進運動とは、1958年から60年にかけ、重工業中心の「経済的躍進」を目指した毛沢東主導の政策である。中国公文書「ホルチン左翼後雑 誌」では「1958年に、1200人の幹部や工人が昼夜を分かたず、鉄炉を建て、1300トンの鋼鉄を練り鍛えたが、総てが使えず、屑鉄」となった。この 運動のために、農民と牧畜民が大量動員されて向上や人民公社に配備されたが、それは深刻な経済的損失と飢餓を招く。強引な計画経済で、作物や家畜、卵など はほとんどが国への納入を課せられた(本書254頁の表によれば、豚、羊、牛、卵などのうち80パーセント近くが国に「売り出され」ているが、その値段は 計画経済で国家が安く買い上げてしまっている)。著者は本書を書くために現地に赴いてインタビューしているが、当時を知る人は全てが死者が続出したと語っ ている。この大躍進は、毛沢東が唯一自己の過ちを認めた政策だったが、内モンゴルは大躍進の失敗の悲劇だけではなく、牧畜そのものも強引な工業化で解体さ れ、同時に、自らの家畜や生産を強奪されていった。

本書では、このような弾圧化、多くのモンゴル人が殺されただけではなく、自らの誇りを守るために命を絶った事例も、公文書に基づき紹介している。漢 人移民に土地を奪われていく過程で、無理な農業化を強制する共産党に「東北人(漢人のこと:三浦注)の恥知らず、彼らを帰らせよ」と言い放ったホタン区長 ガーダ(134頁)、かっては自分が所有していたが、今は交友のものとなった森林を伐採、また自ら育てた作物を自由に販売した「罪」で攻撃され「死んでも 君たちの党に屈服しない」と叫んだ息子と共に自らの家に火を放って自死したウリジ氏一家(226頁)の話などは、公文書でいかに彼らが反逆者として語られ ようが、私達に、彼等こそ誇り高いモンゴル人だったのだという確信を抱かせてくれる。

更に感動的なのは、本書第6章で記される「民族分裂事件」における被害者、ラントウー氏についての記述だ。内モンゴルのガンジカ第一中学校の収拾な 生徒だったラントウー氏は、同級生とモンゴル人の将来について語り合い、学び合っていた。当時の学校では、各団(クラス)の「団支部書記」は、生徒の自主 投票ではなく担任教師と学校の側が候補者を事実上認定していたが、ラントウー氏は、クラスの生徒たちを説得し、「選挙」うぃお実施、担任でこれもモンゴル 人の劉国卿先生もこれを承認した。しかし、この日本ならば当然の選挙が、その後この学校周辺で起きた幾つかのモンゴルの自立を求める発言と結び付けられ、 1964年「ラントウー民族分裂集団」として逮捕される。その後彼は「労働改造所」に参加させられ、その後も地元の党支部では常に「批判される」対象とな り、時には拷問もうけた。しかし、その彼を信じて、自らの職を失うことを覚悟しても結婚した女性、ツツゲ氏がいたことは救いだった。1968年、文化大革 命の全盛期には投獄されて轟音を受け、ろっ骨をひどく折られる。1969年に釈放されても治療を受けるお金もなく、自ら医学を学び治療したが、文化大革命 の過血を中国政府が認めて以後、やっと政府の試験に合格し、中学校の教師として職に就くことができた。

このラントウー氏は、何と、著者ボヤント氏の学校での教師だった。今回本書を書くために内モンゴルを訪れ、かっての恩師と再会したボヤント氏はこう 記す。「ラントウー氏は『今まで共産党の良い面は私には見えなかった』と言い。何十年もの間、誰にも言えなかった心に溜まったことを話し始めた。私も先生 も二人とも、何も言えなくなり、何分間か黙って、お互いにタバコで『話』していた。」(294頁)

 しかし、ラントウー氏と妻のツツゲ氏は、自分の孫たちにこう教え続けているという。「我々は人間として、特にモンゴル人としての尊厳を守りながら 生きてきた。如何なる代価を払っても、モンゴル人や、モンゴル文化を守っているならば、いつでも、どこでも間違いない。逆に勇気ある勝利者になる。」


 この「民族分裂事件」が、如何に内モンゴルにおける文化大革命とその惨劇に繋がって行ったのかを、本書第7章は見事に解き明かしていく。その部分 は、ぜひ本書、また楊海英氏の「墓標なき草原」(岩波書店)に当たられたい。しかし、このラントウー氏の言葉は、いかなる弾圧をも乗り越えて、今も内モン ゴルの人々の間に生き続けているはずだ

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